僕の住んでいる街には小川があって、その両脇にはたくさんの桜の木が植えられている。調べてみると地元ではそれなりに有名な桜並木らしくて、その季節になれば川辺を散策しながらお花見をする人もいるらしい。「らしい」と言ったのには訳があって、というのも、僕がこの街に住み始めたのはほんの半年前くらいのことで、つまり靖国神社のソメイヨシノも開花宣言がなされた今、僕はこの街ではじめて桜の季節を迎えたという次第である。
この桜並木を見ることを目的としてここへ引っ越してきたわけではないにしても、この桜の花が咲くのを僕はそれなりに楽しみにしていたし、なにせこの並木道は僕が普段よく通る道であるのだから、真冬の桜並木を歩きながら来たる春に思いを馳せるくらいのことはあってもいいことだと思う。
そうしてついに、この桜並木に春が訪れた。まだほんの一部の花が咲いたくらいではあるけど、愈々桜の季節となった。
「僕は待ちわびたその桜の花に、目を奪われた。小さいながらも力強く咲き誇るソメイヨシノの一つ一つをみて、僕は思わずうっとりした。道ゆく人も携帯機器なんかを取り出して、惜しむようにして写真をとっていた。僕も思わず、ありきたりな桜の写真を何枚か撮った。」
というようなことを言えたらたぶん良かったのだ。たぶん良かったのだろうけど、そうではなかった、実のところ。
僕の目にうつったのはそんな感動的な桜並木ではなかった。なにか特別な間違いとか、取り返しのつかない勘違いがあったとか、そういうのではない。
興ざめであった。なんだかシラケちゃった。もしかしたらただ単純に、まだ満開とは程遠い、三分咲きにも満たないような具合だったからかもしれない。単純に昨日のほうが暖かかったからかもしれない。単純に僕がそれを見たのが特別風情あるわけでもない夜の九時くらいだったからかもしれない(然しながら人の好みこそあれ、夜桜というのだってきっと悪くはないはずである)。
細かい理由なんてものはさておいて、とにかく僕はその開花した桜並木をみて、なんだか興ざめしてしまった。真冬の、寒々しく枝を伸ばしていたときのほうがよっぽど良かった。あるいは数日前、今にも爆発しそうなエネルギーを蓄えたつぼみを覗き込んでいたときが一番楽しかった。
果たしてこれは一体、どうするべきなのだろうか。ただのワガママかもしれないし、そうじゃないかもしれない。不幸かもしれないし、そうじゃないかもしれない。でも僕が、寒々しく伸びた枝とか、爆発しそうなつぼみとかを見て、「なんだか悪くないな」って思えたのは、この開花した桜ありきの話だったはずなのである。
似たような、でもちょっとだけ違う話なんだけど、東京・大田区に桜坂という、文字通り桜のある坂道があって、昔よく僕は自転車に乗って、その桜坂へ行っていた。歌にもなった場所だから、知っている人も多いかもしれない(なにせ曲名がそれそのものなんだからね)。
当時自転車でふらふらと出かけるには丁度良い距離のところに住んでいたからというのもあって、僕はそれなりに何度もその場所へ訪れたことがある。当然、あの赤い欄干越しに満開の桜を望んだこともある。
でもなぜか、今でも思い出すのは、「真夏の桜坂」なんだよね。淡いピンクに染まった世界とかじゃなくて、花なんてとっくの昔に散ってしまって、今ではすっかり葉っぱに身を包んでしまった桜坂。「そこに桜が咲いていた」というのが、当時の僕にはどうもキザで洒落たものであると感じられたみたいで、そのとき僕はたぶん丁度二十になろうというくらいだったと思うんだけど、その頃の僕は自転車を漕ぎながら真夏の桜坂を見て、そんなことを考えていた。
緑緑しい葉に包まれた桜坂を、風に吹かれながら坂の上から眺めていた映像が、どうも一番焼き付いている。
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